Op. 30 . 05 . 2020 

 

画像はイカの骨。

無色透明の羽みたい。

 

 

自分のためだけに記録する

ただの日記。

もはや、アウトプットが止まらない病。

 

ある科学者を名乗る人のある記事を読んで

毒気づいていた内側が

ごっそり浄化された感がある。

 

 

 

 

昨日、自分のために毒を込めて送った

ある人へのメールへの返信のくだらなさに

いろんなものが昇華された感じがある。

 

感性のにぶい人が

「過剰な承認欲求という毒」をまき散らしていることに

気付きもせずに(当然の現象なのだろうけど)

 

連呼する「感謝」や「愛」という言葉に

吐き気がする。

なんの響きもないただの記号的なことば。

 

 

どこから借りてきたのか、

どこから盗んできたのか、

失笑しかない陳腐なことばたち。

 

それに酔ってる輩。

くだらない。

 

 

響き合いのない関係性の中に在ることの苦痛。

もはや1秒たりともそこには居たくないというのが

本音である。

末に観えているのは病のみ。

 

 

 

 

 

自己欲求のためだけに

記事をつくることの心地よさよ。

一生、誰とも関わらなくてもいい気がしてる。

 

昨日、友人との会話でヨウジヤマモトの話になって

今朝、ずいぶん前に届いていた無料雑誌に目を通すと

山本耀司さんの娘さんが北九州出身なのだとか。

 

へー!と、単純単一生物的性質である私は

一気にテンションアップ。

 

 

 

 

ヨウジヤマモトの服は、母の影響もあり

20代の頃、よく買い物をしていた記憶がある。

 

ファッション界(だけじゃないけど)の裏側は、

表に出てくる美しい側面しか知らないからなのだろうけど

作品が創られていく過程に惹き込まれていく感覚がある。

 

完全自分用に新たにつくりなおしたインスタで

好きなファッションデザイナーの投稿があがってくるのが

日々の楽しみのひとつとして戻ってきた。

 

洋服は、見ると欲しくなるけど

見なければ欲しくはならない。

自己調律とは、そういうものである。

 

 

 

 

この一年で、難解すぎた本たちが

さらさらと読めるようになっていて

それが何よりもうれしい。

 

ずいぶん昔に

タイトル買いしたケン・ウィルバーさんの

「存在することのシンプルな感覚」も

物語を読むように読めそう。

 

と言っても、

文学作品と呼ばれているような小説系は

ほとんど読まないけど。

 

 

内なる世界の平穏よ、おかえり。

という「いまここ」。

 

 

 

 

 

フェイスブックに漂う空気感が私は苦手である。

もはや、そこには、私の居場所はないように思う。

悲愴感からではなく、中庸的観点から。

 

ちょうど1年前にアップしていた

自分のある投稿を読んで、この頃はすでに

妙なことの連続で恐怖心の中、

自己防衛的に記事を投稿していた感覚を思い出す。

 

いま、読んでみると、何もおかしくないし

自分の記事で自分がスッキリしていく。

という感じがある。

 

あとで、気が向いたら、記事貼り付けよっ。

 

 

 

 

仕事のことを考えない日はない。

何が出来るか。何が必要とされているのか。

もはやわからない。

 

お金を手にすることで

歪になっていく人の共通的なにおいを

昨日も感じてしまい、そうなるくらいだったら

野垂れ死んだ方がマシだと思うのは

ただの世間知らずなのか、苦悩を知らなさすぎるのか。

 

 

もはや、繋がってるとも思われたくない

「友」であったであろう存在の鬱陶しさ。

人の名前、勝手に利用するだけしておいて

使用料請求したいくらい。

 

自分の足で立てない人たちが発する

軽すぎる文字のような言葉にのってるものは

私にとっては毒でしかない。