
1年前、深い意識層に接続していて
意識感覚おかしい中で必死に動いていた頃、
記憶が定かではないが、日本ではじめて
女性で精神科医になった方が
熊本出身だったという情報に接続した。
ツイッターに情報を残しているので
遡れば、お名前などもわかるのですが。。。(;^_^A
その方は、透視能力があったのだそう。
そして、自死を選んだ。
同じころ、読み解きとして
私の好きな詩人である
金子みすゞさんの情報にも接続していたのだが
金子みすゞさんも
母の生まれ育った山口県で若くして自死を図った。
その頃、そういう情報ばかりに接続していた。
自分自身が病気になってしまったのかもしれないという
不安の中にいた。
こんな状態になっている場合じゃないのに。。。
という焦りもあった。
首絞め感覚も酷くて、
かろうじて呼吸をし、生活が出来ていたのは、
夜中まで話し相手になってくれた大親友の存在と
毎週、娘に母国語を教えてに来てくれてる
幼なじみの存在があったからである。

自分自身がそんな状態なのに
救われない魂たちを救い上げなくては。
と、いまとなっては、
なぜ、そんなことを思ったのかはわからないが
必死に光のあたらない魂たちを救い上げなくては。
と、その一心で、気付けば、ブログ記事を書き続けていた。
書いた後、「あれ?なんでこんなこと書いたんだろ。」と
思うこともしばしばあった。
親友とのLINE会話として記録が残っているが
「もう少しで薬が要らない病気の治療法が完成しそう」
とも、大真面目に、真剣に書き綴っている。
いま、読み返すと、なんでこんなこと書いたんだろう。
と、不思議な気持ちになる。(;^_^A

さきほど、「愛を込めて」という
手嶋葵さんという方の曲を聴いていると
ふと、その頃のことを思い出した。
☆
#メメントモリ 死を想う
祖父の死が教えてくれた
私が大切にしていたい生き方である。
☆
もし、大切な人が
「死にたい」と言って来たら、
私は、「死ぬな。生きろ。」とは言えないな。
と、ふと、いま思う。
人ひとり死んだところで、何も変わらない。
死にたいという人を止める権利が誰にあるのだろうか。
言えることがあるとするならば
「私は、悲しくなる」くらいであろうか。
同時に私は思う。
いずれ死にゆくいのちなのだから
もう少しだけ生きてみたら?って
無責任に言いたくなるだろうな。と。
☆
人が人を救えると思うこと自体が
救おうと思うこと自体が
私には傲慢に感じる。
誰も誰かを救うことは出来ない。
癒すことも出来ないのである。
私がヒーラーという肩書きに違和感を感じるのは
そういう、私自身の思想からである。
☆
夏至の足音が近づいてくる。
陽の気が最大となる日とされる。
アルケミークラスでしたかったことを
この記事ですべて表現出来た気がしている。
満足。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
# 金子みすゞさんの有名な詩


DIALOGUE+DIARY
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