
昨年春から、あらゆる視点で
あらゆる目的のために、あらゆる表現形態で
気の済むまで投稿し続けて来た。
それは仕事の再構築が始まりでもあったし
最後の賭け的でもあったし、セルフヒーリングでもあり
自己表現でもあった。
目的を問われると、多目的であったとしか言いようがない。
☆
よく、ブログ上での印象と
実際に会った時との印象が違うと言われることがあり
その度に、私は、へー、そうなんだぁ。と不思議な気持ちになっていた。
どの私も偽りのない私自身だからである。
神秘的に見えるなんて言われた日には
何をどう見たらそう見えるのかが、全くわからずにいた。
こんなにわかりやすくて単純な人間はいないと、
私自身は思っているからである。
自身を魅せるために記事を投稿したことは一度もない。
どこからか借りてきたような、
コピー機のような記事にならないようにはこだわってきた。
記事を投稿する際は、何度も何度も読みなおし
諳んじることが出来るほどに読みなおし
内なる感覚とズレがないか、チェックした。
その分だけの時間をかけてきた。
正確に言うと、時間がかかった。
ひとつの記事をつくりあげるのに数時間費やすことも多々あった。
ブログ記事は、仕事をしていく上で
私が大切にしている世界観が表現出来ているといいなぁ。と
私なりのこだわりを大切にしてきた場である。
☆
いま、友人が「そんれに。」と手渡ししてくれた
ココ・シャネルの人生が綴られた本にあった
「嫌いなことに忠実でありなさい。」という文言が、ふと浮かぶ。
嫌いなことに忠実に表現をし続けた1年だった。
したことのない、したくないことに挑戦した一年でもあった。
不安になると、本棚から直感したものを手に取るも
読むと更なるパニックに陥るところから、今春、ふと、手に取った心理書が
私のお守りとなっていた。
それは「魂」のことが書かれている本である。
私は、自分のボキャブラリーの少なさに
コンプレックスを感じていた時間が長い。
それは、表現したいことが表現できないもどかしさを感じる時間でもあった。
私にとって「ことば」は、心魂の栄養源なのである。
☆
ようやく、拡大し続けていたであろう
「意識」という名の「気」が
等身大の私自身にすっぽりと納まった感覚がある。
昨年からここまでに得たものは大きい。
自己信頼とは別の、
経験からでしか得られないであろう大きな自信も手にした。
半面、ショックな出来事も多かった。
先ほど、ふと、目についた
「サワロカクタス」という名前のアリゾナエッセンスを摂り始めた。
すーっと「気が落ち着いていく」感覚があった。
サワロカクタスというサボテンの花は
わたしたちに「内なる権威(父性)」「内なる叡智」を引き出すことを教えてくれる。
日常を快適に過ごすためにも
仕事を快適に立てていくにも
一度、外に向けて「内なる権威」を立てる必要があったような気がしている。
実際に、そこを意識しながら過ごした時間枠でもあった。
ふと、不安になると、
意識レベルというものは実年齢とは関係がないという文面がある書籍を
お守り代わりに何度か読み返した。
☆
出会いには
こんな風な歳の取り方をしたいな。と憧れるものと
こんな風には生きたくないな。と反面教師になるものとがある。
皮肉にもわたしの器を大きく広く強固なものに育ててくれたのは
反面教師的な出会いすべてである。
☆
この一連の流れの中で私は計り知れないほどの財産を手にした気がしている。
経験ほど財産になるものはないと思うから。
そして、この間に、想像を超えた深さで刻まれていた
いわゆる「トラウマ」を解放出来たような気がしている。
「業(カルマ)」の清算が進んだとも言えるのではないかと。

人生において、誰かに理解して欲しい・わかって欲しいという想いは
はるか昔にあきらめていた私は、この間に、全受容された感覚がある。
それは、誰ともなくすべてに。
それを、大いなるいのちと私は呼びたい。

ここからユングが言った
「人生の午後」がはじまるのであろうと直観している。
人生の午前と午後の境目である「正午」であったのであろう
2019年春から2020年初夏の特別な時間枠を
私は忘れることはないだろう。
たぶん。
あんまり自信ないけど。(;^_^A
喉元過ぎれば熱さを忘れるタイプ。(;^_^A
内なる情熱が長続きしない。。。(;゚Д゚)
私は霊性、間違えた、
「冷静と情熱の間」をうろうろ彷徨い続けることを
ここに誓います!!!(ドヤ顔)


