
自己対話を知らない場に
ひとり自己対話をするものが居ると
それはサンドバックのような役割を背負うこととなる。
それは、「家族」という社会の中で
「社会」という枠組みの中で。
時に「学び」という場で。
「師」という演者の「暴君」によって。
☆
無知の知を
知らないものほど
知を誇示する。
華で在りたい人ほど
草を引き寄せる。
君主で在りたい者ほど
和を乱し和を謳う。
歪んだ鏡が好きな
被害者意識という加害者。
抑圧した感情が毒をまき散らし
争いの根を隠し持ってるものが
個を潰すし事なきこととする。
我欲が無欲を侵し
病は更なる病を量産する。
陰湿さが隠者となり
賢者と奉られる。
☆
識者は語ることを放棄し
賢者は沈黙を保持する。
自己責任を押し付ける無責任。
対話なき暴力。
演者という曲者。
歪曲された事実。
人真似という泥棒。
病みだらけの療法。
病人好きな集団。
サングラス好きは、
世界が黒く診えるのであろう。
サングラスを外して
はじめて世界はその色として観えるというのに。
☆
以上は、
ここまでに私が観てきた「社会」であり、
私が体験した「事実」の「表現」である。
☆
私にとって生きる喜びとは
生きていくことの光と闇を抱えた先に
在るものである。
そして、私は常に喜びと共にある。
生きている。という意味で。
主観の強い者からの助言は
不要である。毒素でしかない。
#表現者は語る
#アーティスティックセラピスト


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